毎年、秋に行われる大原はだか祭りは、江戸時代の昔から行われていた。大井区の瀧内神社に祭りを描いた絵馬(祭礼絵馬:中魚落郷の祭礼を描写した物で、縦110cm横182cmある)があり、文久4年:(1864年)子年正月13日大井村若者中により奉納された事や、別の絵馬には天保12年とある事から、150年前の天保年間にすでに、祭礼のしきたりや組織が出来あがっていた。江戸時代には娯楽も少なく、住民が祭りを年一回の最大の楽しみにしていた。当時は仕事の忙しさから、とかく住民の気持ちがばらばらになりがちであった。このためこの地域の領主は唯一無二の楽しみである祭りが、住民の集団行動と意志疎通をはかることができるという重要さをみとめていた。そして、神輿渡御が無事に終わった事を大多喜城主に早飛脚で報告せしめたとある。何を質に入れても祭りの仕度をととのえたといわれているこの行事は、大原の住民が心を一つにし、体ごと生きる喜びを表現する歴史絵巻でもある。期日も昔は8月13日から15日までであったが改暦により、明治6年からは9月23日〜25日とされ、さらに大正2年より現在まで9月23日〜24日の二日にわたって行われるようになった。はだか祭り は、他に比類ない勇壮な祭りであることから、戦時中に当時の氏子総代が警察に祭り騒ぎでもないと自粛を申し入れたが、地域住民の志気を高めるのに良いことだからと大いに祭りを行うようにと警察より申し渡されたと伝えられている。
現在は、昔と少し異なるが、初日23日午前10時に大原地区の神輿十社は親神である鹿島神社に参集、法楽施行、午後大原漁港に向かう。東海・浪花両地区の神輿もそれぞれの地区の行事後同じく大原漁港へ集結する。十八社がそろって五穀豊穣漁祈願ののち汐ふみの行事に移る。汐ふみは、祭りの見所の一つで神輿が数社海に入り、荒渡を受けながらもみあうさまは勇壮豪快の一言につきる。汐ふみ行事後、木戸酒造前に全部の神輿がそろい、社ごとに並列で唄い踊り、もみあって大原小校庭へ向かう。その間、大原中央商店街通り約一キロの区間は、人と神輿で理まり祭り一色になる。大原小学校に入った神輿は、お互いに競争するように力の限り校庭内を駆け回る。この頃になると、日も落ち薄暗くなった校庭に提灯の灯が幾重にも灯り幻想的な雰囲気をかもしだしている。全神輿が入場すると校庭が神輿・氏子・観衆で埋めつくされ、やがて、各神輿が駆け終り神輿を何度となく、高々と放り投げ、受け止め、投げ上げる頃祭りは、クライマックスを迎える 。花火が夜空をいろどるのを合図に、神輿を高々と上げ二社三社と寄り添い、大別れの儀式が始まる。別れをおしむ歌「若けもんども別れがつらい会うて別れがなけりゃよい」と唄う様は、さきほどまでの荒々しさとはうってかわった風情である。この大別れ式が終わると、それぞれの神輿は、そのまま各地区へ帰るのをこばむかのように午後10時ごろまで商店街でもみあう。翌日の24日は、午前中それぞれの地区の行事後、大原八幡神社に参集し、白由渡御後、木戸泉酒造前にそろい、商店街通りを練り歩き大原小学校に向かい大別れ式に臨む。この日は来年の祭りまで、しばし神輿との別れを借しむ若衆が遅くまで御輿をもんだ後、甚句や木遣によって宮入りとなる。
大原はだか祭りの祭り唄は古くから唄われ、神輿がもみあい移動する時に唄われています。
その時その時の時代や地域に合った唄が生まれ歴史を感じさせる。
今も祭り唄の替え歌ができたり、唄い易いように変わったりしている。しかし、調子は昔のまま唄い続けられている。
ここに載せた祭り唄は、全部とはいかないがかなりの数が載っている。全ての唄を憶え後世に残せる人もだんだんいなくなってきていることは、悲しいことであるがここに載せることによって興味を持ってくれることを願います。
大原町文化センターに展示している神輿 |